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デンマーク ・ ヘルシンガーからの便り  71

「P・V・イェンセン=クリントとグロントヴィ教会」

2024/5/10小野寺綾子 / ヘルシンガー


P・V・イェンセン=クリントとグロントヴィ教会

コペンハーゲンにある3つの丘の一つビスペビャオの丘にP・V・イェンセン=クリント(Peter Vilhelm Jensen-Klint 1853-1930)が設計した「グロントヴィ教会(Grundtvigs Kirke)」があります。
ゴシック様式のファサードの教会に入ると、黄色のレンガで作られた「船」と呼ばれる内陣は荘厳です。 余計な装飾が一切なく、天井に垂直に伸びる柱、自然光で移り変わるレンガの明暗が美しいです。 整然と並べられた椅子は壮観です。
グロントヴィ教会の建設は最初P・V・イェンセン=クリントが1927年に塔の部分ある「塔のある教会(Taarnkirke)」を完成させました。 彼の死後息子のコーア・クリント(Kaare Klint 1888-1954)がその後ろに主なる建物の建設を引き継ぎ1940年に完成させました。 1960年代にコーア・クリントの息子エスベン・クリント(Esben Klint 1915-1969)が大型オルガンやランプの設計をしたように親子三代が教会に関わっています。

N・F・S・グロントヴィ(N.F.S. Grundtvig 1783-1872)は牧師、思想家、教育者、歴史家など様々顔を持ったデンマークを代表する一人です。 現在でもグロントヴィが残した業績はデンマークの社会に残っています。 彼が書いた賛美歌は教会で歌われています。 特に彼が始めた人間の自己形成を目標に置いたフォルケホイスコーレの成人教育制度は日本語で国民高等学校というように知られています。
1872年に89歳で亡くなったグロントヴィは生前から沢山の肖像画や像が製作されました。 彼の死後銅像ではなく、グロントヴィの記念碑を作ることが協議されました。 1912年に行われたコンペでイェンセン=クリントは娘婿の建築家と共同でドーム型の建物の設計で一位になりました。 次の年にあったコンペでは鐘がある塔の設計を出しました。 コンペではイェンセン=クリントの弟子の助言により、教会が地域の中心になるように教会の周りを住宅が囲む案に変わっていきました。 本来記念碑はコペンハーゲン市庁舎あたりに建てられる予定でしたが、計画の規模が大きいのでビスペビャオという新しい土地に決まりました。 1900年代始め、コペンハーゲン市は将来の人口増加を予測してコペンハーゲンの北西地域などに土地を買い、そこにアパート、病院、消防署、墓地、火葬場などを作る計画がありました。 その頃ビスペビャオは畑が広がる田舎でした。

P・V・イェンセン=クリントは建築、家具デザイン、独特な文字の道標など幅広い活動をしました。 彼は南シェーランドの出身で子供のころから数学と絵が得意でした。 建築家を目指して工業学校で土木技術を学んだ後、王立アカデミーの絵画科に入学しましたが、7年在籍して卒業試験を受けず退学しました。その後工業学校や農業学校で数学や絵画を教えていました。 彼自身もフォルケホイスクール活動に参加していて、1881年、28歳の時ホイスクールが縁でマチルダという7歳年上の女性と結婚して2男1女をもうけました。 長男は娘の名前を取ったランプの傘会社レ・クリント(Le Klint)を創設しました。 長女は彫刻家で父の弟子と結婚。 次男のコーアは建築家になりました。
イェンセンという姓名はありふれた名前で野暮たらしいので、1893年、40歳の時、国王から名前変更の許可をもらい、イェンセン=クリントに改名しました。 若い時に旅行したムン島の石灰岩の岸壁が続くクリントと呼ばれる土地に感銘を受けたというのが理由です。

イェンセン=クリントは画家として展覧会でデビューしたのは30歳ごろですが、本格的に建築家として仕事を始めたのは43歳の時です。彼は生涯6つの教会を設計し、グロントヴィ教会は5つ目の教会です。
1921年、彼が68歳の時、教会の工事が本格的に始まりました。 1927年12月に49mの高さの塔のある教会と教会を囲む住宅が完成しました。 イェンセン=クリントは教会の建物が明るい光を放つようにカリオンをふくむ高温で焼いた黄色いレンガを使いました。 レンガの表面をわざわざレンガで一個一個けずり滑らかにしたので、レンガ職人が積めるレンガの数は一日100個と普通の作業より時間と手間がかかりました。 彼は個性的なデザインで入り口のドアの取っ手、ベンチ、説教台、洗礼台、祭壇、燭台などを設計しました。 建物の外の左右に鐘がある中二階まで行ける螺旋階段があります。
塔が完成した時、すでに教会をさらに拡張する計画があり、1929年から地下室の工事が始まりました。 1928年、イェンセン=クリントは自分が存命中に教会は完成しないと予測し、彼の死後息子と現場監督が教会の事業を継続することを決めました。

1929年12月22日、イェンセン=クリントはコペンハーゲンの北にある鹿公園に一人で散歩に行った時、愛用の帽子が風に吹き飛ばされました。 その帽子を拾おうと木々の間にある沼に落ちて身動きできなくなりました。 幸い通りがかりの青年に助けられましたが、この事件以来彼は体力が落ちて、1930年12月1日、77歳で亡くなりました。 自分が設計した塔のある教会で葬式があり、レンガ工が棺を道の隔てた火葬場に運びました。 遺言通り火葬された遺灰は教会の入り口部分にある壁のレンガを取り外して中に収められました。 3年後に亡くなった妻の遺灰も同じ場所に収められました。 大小の花輪が壁にかけられていますが、大きいのが妻、その下にある小さい輪がイェンセン=クリントのものです。

1931年、42歳だったコーア・クリントは父の設計図をもとに教会の工事を続けました。 彼が設計したのは有名な信者用と牧師用の椅子、オルガン、説教台、祭壇、賛美歌の番号掲示板などです。 レンガの床の色を見ると、塔のある教会の床の部分が増築された床よりくすんでいので境目がはっきりわかります。 1940年9月、ドイツ占領下の中、ようやくグロントヴィ教会が完成しました。 教会の建設に5百万個のレンガが使われました。

グロントヴィ教会は教会だけでなく、周りにある建物も見る価値があります。 イェンセン=クリントは公道から教会の参道の両角にあるゴシック様式の建物はもちろんのこと、右側のレストランのロゴもデザインしています。 教会の周りには彼が設計した住宅が建っていますが、10種類もデザインが違うレンガで作られた入り口があります。 住宅地の中庭から見る教会の思いがけない風景。 レストラン同様にイェンセン=クリントの筆記体で書かれた注意看板などが今でも使用されています。 教会の反対側には広大なビスペビャオ墓地があります。 墓地の設計は教会から道が一直線に墓地を貫くようになっています。 最近は墓地にある桜並木が有名になり、桜の季節になると数万の人が桜を見に来ます。
今でもコペンハーゲン市庁舎前、ノアポート駅、ウスタポート駅などの大通りに1910年にイェンセン=クリントがデザインした道標が人知れず立っています。

*デンマーク人名「グロントヴィ」は、原語の発音により近い表記(下記参照)。
・村井誠人編著『デンマークを知るための70章』(第2版)、明石書店、2024年
・北欧文化協会、北欧建築・デザイン協会ほか編『北欧文化事典』、丸善出版、2017年

写真は全て小野寺綾子氏撮影
全ての内容について無断転載、改変を禁じます。

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■ 公道から教会に続く参道。ゴシック様式の建物の右側はレストラン。

■ 公道から教会に続く参道。ゴシック様式の建物の右側はレストラン。

■ 正面のドアの取っ手。

■ 正面のドアの取っ手。

■ 最大1300人を収容できる教会内部。コーア・クリント設計の椅子が整然と並んでいる。

■ 最大1300人を収容できる教会内部。コーア・クリント設計の椅子が整然と並んでいる。

■ 光の陰影が美しい。4つの円形のランプはエスベン・クリントのデザイン。

■ 光の陰影が美しい。4つの円形のランプはエスベン・クリントのデザイン。

■ 説教台の土台の部分。教会にはイェンセン=クリントとコーア・クリントが設計した二つの説教台がある。

■ 説教台の土台の部分。教会にはイェンセン=クリントとコーア・クリントが設計した二つの説教台がある。

■ 教会地下には信者用の集会所やトイレがある。

■ 教会地下には信者用の集会所やトイレがある。

■ 塔がある教会として作られた時の床と増築部の境目が分かる。

■ 塔がある教会として作られた時の床と増築部の境目が分かる。

■ コーア・クリントが設計した祭壇。中央にイェンセン=クリントが設計した幾何学的な燭台がある。

■ コーア・クリントが設計した祭壇。中央にイェンセン=クリントが設計した幾何学的な燭台がある。

■ 教会の初期の部分と増築部。塔に上る螺旋階段が塔の教会部分の両外側についている。

■ 教会の初期の部分と増築部。塔に上る螺旋階段が塔の教会部分の両外側についている。

■ 教会を囲む住宅の庭から教会が見える。

■ 教会を囲む住宅の庭から教会が見える。

■ 教会の中二階にある鐘まで行く螺旋階段。幾何学なレンガ積みが美しい。 中二階から教会が見渡せる。

■ 教会の中二階にある鐘まで行く螺旋階段。幾何学なレンガ積みが美しい。 中二階から教会が見渡せる。

■ イェンセン=クリントが1910年にデザインした道標。 交通の往来があるノアポート駅すぐ近くにある。

■ イェンセン=クリントが1910年にデザインした道標。 交通の往来があるノアポート駅すぐ近くにある。

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